暁烏敏

あけがらすはや 1877~1954


【作者略歴】

真宗大谷派の僧。

石川県生。十四才で得度。

雑誌「精神界」の編集に携わるなど宗政改革に奔走した。

戦時中から目を患い、後には失明するが、昭和二六年には宗務総長となり、精神主義に基づく仏教伝導に努めた。

昭和二九年(一九五四)寂、七八才。

暁烏敏とは、どのような人物だったのか?

暁烏敏とは、明治から昭和にかけて説教と著作で一大ブームを巻き起こした明治の名僧である。怪僧という人もあるかもしれないし、傑僧と言うかもしれない。

この人は真宗の近代化の旗手であった清沢満之の弟子にあたる。歎異抄は今ではポピュラーなものであるが、当時は語る人もなく、暁烏敏が見出して今日のように親鸞と言えば歎異抄、とまで言われるほどにしたのである。

歎異抄によって自ら救われた体験から法を説き、常に全国各地に出向いて説教会が催された。会場には瞬く間に数百数千の聴衆が雲集したという。

生まれ育った石川県の明達寺にはほとんど帰らず、家族の世話からお寺の切り盛りをしていた夫人を病死させ、さらに恩師の娘を後妻に迎える。にもかかわらず40代半ばにして近郷の名家の病弱な娘さんと真剣な恋仲になってしまう。

また当時の真宗教団にとっては「歎異抄」は劇薬の部類に入り、それを語って法を説く彼は異端者としてのレッテルを貼られ、本山に異安心として告訴状を提出される。さらに恋愛関係も宗教各紙に取り上げられ、スキャンダルに発展。しかしそれらのことすべてをあからさまに告白し、また法話や著作の題材にしてしまい、かえって聴衆は増加した。

中年頃から失明したにもかかわらず、インドや欧州に旅立ち膨大な古今東西の著作を収集して帰国した暁烏は、次代の研究者のために、大日本文教院というとてつもない建物の建設に奔走する。しかしこの計画は戦局厳しい折から挫折、彼にとって思うようにいかなかった唯一のものであったらしい。東西の文学、哲学、思想に飽くなき好奇心を持ち、失明してからは本を読んでくれる青年、読書子を常に侍らせていた。

 戦時中は従軍僧として戦地にも赴き、戦争遂行者たちとの親密な関係も噂された。虚実こもごもではあるが、一条の光も目にすることのない中、最期までその闘志は衰えることはなかったようだ。借金問題に苦しむ本山東本願寺の宗務総長に就任して、たった一年でその問題を解決してしまう、それほどのカリスマ性をもった存在だったのであろう。

子どもがなく、口述速記して著作をまとめた弟子たちの確執もあり、複雑な心境の中で戦後間もなく歿した。いかなる人といえども人の一生とはそうしたものなのであろう。

今では名前も聞かれなくなったが、その業績は残っている。大病人だからこそ劇薬が必要だと絶叫した暁烏の言葉は、今の時代こそ待たれているのかもしれない。


• 明治10年(1877)、石川県石川郡出城村(現白山市)真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。父の暁烏依念は説教師として知られた人物母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。

• 松任高等小学校を卒業後、金沢にあった共立尋常中学校(東本願寺と石川県が出資し設立した学校)に進学。

• 明治26年(1897)、共立尋常中学校を退学後、京都の大谷尋常中学校に編入。清沢満之に出会い、以降師事する。

• 明治29年(1896)、真宗大学本科に入学。清沢の宗門革新運動に参加。

• 明治33年(1900)、真宗大学を卒業、東本願寺留学生として東京外国語学校露語別科に入学し、二葉亭四迷に教わるが中退。同年9月、親鸞の思想を近代哲学の観点から見直していた清沢満之の私塾浩々洞に入洞する。佐々木月樵、多田鼎とともに浩々洞三羽烏と呼ばれる。

• 明治36年(1903)より、『精神界』誌上にて「歎異抄を読む」という記事を、8年間55回にわたり連載し、世に『歎異抄』の存在を広める。同年、清沢満之が死去。浩々洞代表となる。

• 明治44年(1911)、その情熱から異安心(浄土真宗における異端)扱いを受ける。

• 大正4年(1915)、浩々洞代表を辞し、自坊の明達寺に戻る。各地で講演を行い、そのカリスマ性によって多くの信者を獲得する。しかし同年『中外日報』誌上において、複雑な女性関係が問題視され「信界の強盗」と、再三にわたり非難されている。

• 昭和26年(1951)、真宗大谷派の宗務総長に就任。窮地に追い詰められていた宗派の財政を回復させる。

• 昭和27年(1952)、宗務総長を辞任。自ら喜寿を迎えるに当たって明達寺に清沢満之の像と、脇侍として合掌する自身の像を安置した臘扇堂の建立を計画する。

• 昭和29年(1954)8月20日、臘扇堂完成、落慶法要を営む。その七日後に死去、満77歳であった。