青木月斗

あおきげっと 1879~1949


【作者略歴】

大阪市船場に生まれ、若くして神薬快通丸・天眼水本舖の薬種商「青木薬房」を継ぐも、後年、俳誌『同人』を主宰して各地の句会の指導に当たり、家業を廃して俳句に専念する。その雄渾流麗な独特の書風でも広く親しまれた。

はじめ大阪薬学校に入学するも中退して家業に従事。 1897年頃より俳句を始め、初めは月兎(げっと)と号した。家業のかたわら友人たちと俳句活動に励み、東京の新聞『日本』、俳誌『ホトトギス』に投句し、正岡子規に認められる。

1898年秋に友人と三日月会を発足させ、1899年10月に主幹発行した俳誌『車百合』は関西俳誌の嚆矢となった。創刊に際し、正岡子規から「俳諧の西の奉行や月の秋」の祝句を贈られた。同年根岸庵の正岡子規を訪い、一泊して翌日の蕪村忌に列席している。以後は「倦鳥」の松瀬青々と並び、大阪俳壇の草分けとして活躍する。

1900年妹の茂枝が俳人河東碧梧桐と結婚。1902年『車百合』廃刊後は各地の雜誌に寄稿し、巨口会など関西や商用中の九州の句会に出席した。1915年『ホトトギス』課題選者。文學・美術各方面の交遊が深く、日野醉來の『不二新聞』文藝欄や『大阪新報』などの各地の新聞の俳句選者を担当した。1907年に月斗と改号。1920年俳誌『同人』を創刊、以後終生、主宰として俳句の普及指導に務めた。

名利を追わず、道に厳しく人に優しく、豪宕の反面に細心と洒脱味を持って慕われ、ある時期よりいわゆる俳壇からはやや距離を置いたが、西日本俳句界の雄として、全国的にも多くの俳人を輩出した。

戦時中は奈良県大宇陀町に疎開、1949年その地にて没す。享年71歳であった。辞世の句は「臨終の庭に鶯鳴きにけり」。没後も広く追慕され、月斗が没した3月17日は「鶯忌」と呼ばれている。

作風 ~正岡子規を敬し、与謝蕪村を学んだ。以下のように述べている。

「句は味である。句は調べである。句は情緖を根本としなければならぬ。句品が高からねばよくない。句と人とは別のものにあらず。句によって人を作り、人格を修めて、初めてよき句を産むなり。健全であること、明朗であること。淡白、率直で、さらさらした句がよい。そしてその中に情味があるものが名句である」