岸駒

がんく 1756~1839


【作者略歴】

加賀国金沢に生まれる。

生活は苦しかったらしく、店の暖簾や看板で字を覚えた。4歳の時にオウムを写生したのが絵を描いた始まりとされる。

安永7年(1778年)、絵師として名を立てようと上京するが父が亡くなったため帰郷。翌年、母を連れて再度上洛、通称を健亮と改め、翌年斉藤氏の娘菊と結婚。沈南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学習していった。天明2年(1782年)版『平安人物誌』には名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たす。以後も死の年の版まで漏れ無く岸駒は記載されており、生涯京都を代表する絵師であり続けた。

名声を活用して天明4年(1784年)には有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。翌年、宮家より雅楽助と称すことを許され、駒の名、賁然(ひねん)の字、華陽の号を賜る。有栖川宮の庇護のもと、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作に活躍し、同家の推挙もあって従六位主殿大属生火官人、越前介、蔵人所衆従五位下越前守と順調に官位を得、文化6年には藩主の招きに応じて金沢に赴き、二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。

天保9年、83歳の長寿を全うして没。

岸駒は生前から画料の高さなどから悪評が高くかったが、晩年に隠棲した岩倉の証光院が荒れ果てているのを私費で建て直した逸話がある。

門人は長男の岸岱、岸良、岸連山、岸龍、河村文鳳など多士済々。現在、一般に岸駒を初めとした岸派は認知されているとは言いがたいが、京都の社寺のみならず町家の至る所にまで岸派の作品が残っている。

岸駒の虎

岸駒は自他共に認めるほど迫力ある虎の絵を得意としていた。寛政10年、中国の商人に「富嶽図」を贈った礼として虎の頭蓋骨を手に入れ、それに知人から借りた虎の頭の皮を被せ、その姿を様々な角度から精密に写生、また後に虎の四肢も入手し、やはり詳細な観察記録が残っている。富山市佐藤記念美術館には岸駒旧蔵の虎の前後脚が所蔵されている(頭部は出産のまじないに貸し出されて以来、行方不明)。従来の猫を手本とした作風とは打って変わった、迫真の虎図誕生の裏には、こうした努力があったのである。