慈雲尊者

じうん 1718~1805


【作者略歴】

享保3年(1718)~文化元年(1805)

江戸時代後期の真言宗の僧侶。

俗姓上月氏。法諱は飲光。号は百不知童子、葛城山人、雙龍叟など。慈雲尊者と尊称される。

能書家として知られ、戒律を重視した「正法律」(真言律)を提唱した。

大坂中之島の高松藩蔵屋敷に生まれ、父の遺言により13歳の時に摂津法楽寺で出家、同寺の住職忍網貞紀に密教と梵語を学ぶ。

18歳で京都に行き、伊藤東涯に儒学を学ぶ。翌年奈良に遊学、顕教・密教・神道と宗派を問わず学び、河内の野中寺で戒律の研究を始め、1738年(元文3年)には具足戒を受けた。翌年忍網から灌頂を受けて法楽寺の住職となったが、2年後には同門に譲った。のち信濃に曹洞宗の大梅を訪ね、禅も修めた。

1744年(延享元年)、河内の長栄寺(東大阪市)を再興して住職となり、初めて戒律の講義を行なったのを皮切りに、高野山や近畿の各地で修行と講演を続ける。

1758年(宝暦8年)から生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵文の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。この『梵学津梁』の内容は明治時代に来日したフランス人のサンスクリット研究家シルヴェン・レヴィから高い評価を得たほどであった。

1775年(安永4年)、『十善法語』を著す。翌年河内の高貴寺(南河内郡河南町)入寺、大和郡山藩主柳沢保光の支援を受けて堂舎を整備、正法律の本山と定めた。

晩年独自の神道説を唱え、磐船神社を根本道場とした。慈雲の神道はのちに雲伝神道、または葛城神道と呼ばれた。

1804年、京都の阿弥陀寺で没す。遺体は高貴寺に運ばれ埋葬された。