中原南天棒

なかはらなんてんぼう 1839~1935


【作者略歴】

天保10年~大正14年(1839~1935) 96歳

諱  全忠(ぜんちゅう)

字  鄧州(とうじゅう)

室号 白崖窟

肥前唐津(現在の唐津市)出身。11歳で平戸雄香寺に入ってからは、各地の名高い老師の元で修行。久留米梅林寺の羅山元磨に嗣法。

のち本山妙心寺の長老会議の決定により、混乱する瑞巌寺再建のために派遣され、瑞巌寺124世となる。財政の立て直しや寺宝の整理・修復に尽力したが、末寺の利権にからむ反発により、明治29年西宮海清寺に移る。

自ら切り出した南天の棒を愛用したことから南天棒の名があり、乃木希典や児玉源太郎なども参禅した。

瑞巌寺什宝の書画を修復、現在に伝えた功績も大きい。自らも書をよくし、画賛も数多く残っている。



エピソード

● 禅僧の名前に、「南天棒」とは奇異な感じがしないだろうか。もちろん南天棒とは本名ではなく、白崖窟中原鄧州老師の仇名である。

● 老師が九州を訪れた際、偶然農家の牛小屋の片隅から伸びていた大きな南天の樹が眼に留まってそれを貰い、その樹から作った三尺五寸の竹箆(しっぺい)を携えて道俗の坐禅指導に励まれたことから、老師その人が南天棒と呼ばれるようになったという。老師は「道い得るも南天棒、道い得ざるも南天棒」と、修行者たちに慈悲の南天棒を喰らわせた。

● 南天棒老師は名前だけでなく、禅僧としての生涯も独特なものであったといえる。12歳で出家してより峻烈な雲水修行。これはと思った師家には迷わず体当たりで参じ、自己の禅境を深めていく。反面、求道心がなく、悟境の未熟な修行者・師家には容赦しない。

● 南天棒を引っ提げて、二度の専門僧堂・道場破り行脚に出かけ、全国の僧堂を恐怖に陥れた。また後年、全国の僧堂師家の実力を点検、及第しない師家は再び雲水からやり直しをさせる、というとてつもない「宗匠検定法」を実現させようと試みたが、これはさすがに成功しなかった。

● 仮に禅僧は豪傑で大胆なものだ、という先入観を持つ人がいたとしたら、南天棒老師こそが、その人にイメージされる典型的な禅僧かもしれない