尾竹国観

おだけこっかん 1880~1945


【作者略歴】

弟子の蕗谷虹児についての評論より抜粋

「新潟には反骨覇気の気性をもつ文人や芸術家が育つ。良寛も、会津八一もそうだし、小林古径も土田麦遷も横山操もそうだった。

 蕗谷虹児がめぐりあったのも新潟を代表する画人の血液である。尾竹越堂・竹坡・国観の三兄弟と出会い、そのうちの尾竹竹坡に日本画を習った。竹坡は尾竹三兄弟のうちでも最も激しい気性の持ち主で、すでに文展の新しいスターになっていたが、そのころ横山大観と激突して文展を去っていた。内弟子になった虹児はその孤立した竹坡のデスペレートな活動にまきこまれる。

 竹坡は大正4年に衆議院選挙に打って出て落選、その後は絵の濫作に溺れる。5年ほどこうした混乱を内側で支えた虹児は、父親が新聞社の仕事で行っていた樺太に渡る。ここで2年半にわたって放浪をしながら絵を描くことになるのである。」


弟である尾竹国観の略歴

明治13年4月21日、現在の新潟市に生まれる。本名亀吉。

幼くして笹田雲石に国坡の号を受け、東京学齢館の『小国民』の全国児童画コンクールに応募して一等をとり、学齢館主人の斡旋で上京、小堀鞆音に入門。 

ほどなく帰郷して富山に移り、兄の国一(越堂)、竹坡と富山で新聞の挿画・売薬版画を描いて生計をたてる一方、14歳のとき富山博覧会で三等、16歳で日本美術協会一等賞、翌年同会で銅牌を受けた。


明治29年2月に竹坡とともに上京。弱冠20歳前後から日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会を舞台に受賞を重ねる。

明治41年の〈国画玉成会事件〉では竹坡と共に岡倉天心・横山大観と袂を分かつも、翌年の第3回文展で二等、第5回文展で三等を受賞。大正2年には、横山大観を先頭とする“学校派”審査員によって、不可解な落選という憂き目〈文展事件〉にあったが、大正7年第12回文展までは意欲的な出品を見せた。 

だが反骨の言動から後半生はふるわず、昭和10年に帝展の無鑑査に迎えられて出品するも、芸術的新境地を開くには至らなかった。

一方で国観が描き続けた教科書や、雑誌の挿絵、絵本などのメディアの仕事が注目を浴びつつある。

昭和20年(1945年)5月20日歿(65歳)。