三条実美

さんじょうさねとみ 1837~1891


【作者略歴】

1837 0歳 京都梨木町で、三条実万・紀子の第四子としてうまれる。

母は土佐藩主山内豊策の娘であった。

三条家の家業は、もともと笛であったという。

1839 2歳 当時の風習により、洛東は北新田村の農民、楠六左衛門方で養われる。

1844 7歳 本邸に戻る。当時三条家には桂小五郎・武市半平太・平野国臣などの勤皇志士が出入りしていた。

1862 25歳 攘夷督促の勅使として東下し、将軍家茂の誓書を受けて帰京。朝廷の国事御用掛となり、朝廷内での地位は次第に重くなる。

ますます薩摩・長州・土佐などの尊攘志士との交流が密接となる。

1863 26歳 8・18の政変。実美ら尊王派公卿七人は都を追われ、長州に逃れる(七卿落ち)。

1864 27歳 第一次長州征伐。後に大宰府に送られ、そこで薩長同盟締結に尽力。

1867 30歳 大政奉還。京都に戻り、新政府の議定に就任。

1873 36歳 朝鮮使節派遣についての議論(征韓論)がまとまらず、処置に困り果て昏倒。西郷隆盛を使節として派遣するという話は白紙に戻る。

薩摩出身の軍人・官僚が多数下野。

1891 54歳 死去


エピソード

1863年に暗殺された姉小路公知とは同年代の生まれであり、共に過激攘夷派公家として注目されていたが、姉小路が色黒く大柄であるのに対して、三条は色白で小柄であったため、「白豆、黒豆」と言われていた。

 朝鮮使節派遣論争で、西郷らと大久保らの板ばさみにあって人事不省に陥ったことから、相当の気の弱さが窺い知れる。