古墳時代
体佩:初期は両刃の鉄剣が多い。
中期以降、剣よりは一歩発達した、片刃の直刀が製作される。
「かたな」の語源がこの「かたは」とも言われる。
奈良時代 大化元年~延暦12年(645~793)
体佩:初期は平造りの片刃の直刀が多い。次第に斬撃に有効な、切刃造りの直刀に統一される。
平安時代
前期 延暦13年~寛和2年(794~986)
時代背景
794年 桓武天皇、平安京へ遷都
797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に、蝦夷の討伐
804年 最澄・空海渡唐
810年 薬子の変
901年 菅原道真が太宰府へ流される
927年 延喜式完成
935年 承平の乱(平将門)~940
939年 天慶の乱(藤原純友)~941
戦闘:
騎馬戦が主体となるにつれ、馬上で使用できる刀剣が必要になる。
刀を馬上から使用した場合に備えて、反動を軽減する必要が出てくる。
体佩:
直刀から彎刀への過渡期(刀身に反りをもたせる)。
小烏丸や毛抜形太刀などがこの時代の特徴をあらわしている。
注意:
986年までは直刀期とはいえ、日本刀の祖とされる大原安綱は古書によれば大同年間(806~810)とあるものの、実は後の平安後期とするのが正しいようである。
刀剣の茎に銘を切るようになったのも平安末期である。
後期 永延元年~寿永2年 (987~1183)
時代背景
996年 藤原道長が左大臣に、摂関政治全盛
1016年 藤原道長が摂政に、翌年頼道が摂政に
1051年 前九年の役勃発(源頼義・義家活躍)
1083年 後三年の役勃発(源義家活躍)
1113年 南都北嶺の争い強訴を源平二氏で防ぐ(武家台頭)
1132年 平忠盛、昇殿を許される
1156年 保元の乱
1159年 平治の乱
1167年 平清盛、太政大臣に
1180年 以仁王の令旨、源頼朝が平氏追討に応じる
戦闘:
甲冑が堅固になり、戦闘も大規模・長時間に。
体佩:
鎬筋を高く棟寄りにして刃肉をつけ、堅い物を切るのに都合良くなる。鎬地は棟へかけて重ねを薄く、強度を増して重量を軽くしている。
元身幅に比して、先身幅が極端に狭い小鋒の太刀姿も特徴。
→馬上からの斬撃に反動を少なくするため、ハバキ元で倒れるような腰反りに、物打から上は刺突のための無反りとなる。
刃文:
小乱刃が主で華やかなものはまだない。
鎌倉時代
初期 元暦元年~承久3年(1184~1221)
時代背景
1185年 壇ノ浦で平家滅亡
1192年 源頼朝が征夷大将軍に、鎌倉幕府創設
1203年 北条時政が執権に、執権政治の開始
1208年 承元の御番鍛冶制度を後鳥羽上皇が始める
~各地の刀鍛冶を刺激、技術も飛躍的に発達
1219年 源実朝が公暁に殺され、執権政治確立
1221年 承久の乱、後鳥羽上皇が隠岐へ流罪
体佩:
平安期に完成した上品な太刀姿から、豪壮な姿への過渡期にあたる。
→腰反りではありつつも、ハバキ元から少し上に重心が移動。
鋒もやや大きく、元身幅と先身幅の差が少し縮まる。
刃文:
技巧的な小丁子乱が出現、華やかさが出てくる
中期 貞応元年~弘安10年(1222~1287)
時代背景
1232年 御成敗式目制定
1260年 日蓮「立正安国論」
1268年 執権北条時宗
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
体佩:
初期よりも一層強さが強調される。
腰反りから笠木反り(中間反り)へ移行、反りが浅くなる傾向。
身幅広く、元と先の差が少なくなり、鋒は猪首、蛤刃となる。
→頑丈な大鎧を断ち切るに相応しい造り込みへと変化。
刃文:
備前・山城を中心に華麗な大丁子乱が出現
短刀:
薙刀と共に全国的に製作開始。寸法は八寸前後、内反りが主流。
末期 正応元年~元弘3年(1288~1333)
時代背景
1324年 正中の変(倒幕計画発覚)
1331年 元弘の変、後醍醐天皇が笠置山へ
1333年 鎌倉幕府滅亡
戦闘:
元寇以来、集団戦へ移行、甲冑も動きやすいように軽量化する。
→大鎧から胴巻、腹巻へと移行。
体佩:
軽量化する甲冑に合わせて刃肉が少なくなり、刺突に便利なように鋒が伸び、ますます笠木反りへと移行する。
最末期は重ね薄く、その分強度が減じた分は身幅を広くして補い、大鋒となり大段平造へと変化する(相州鍛冶の全盛期)。
刃文:
地味な直刃丁子や直刃に足入りなどに変化、互の目乱や湾れ刃が出現、大模様なものへと移行する。
短刀:
寸法が伸び、内反りから無反りへ。
南北朝時代 建武元年~明徳4年(1334~1393)
時代背景
1334年 後醍醐天皇による建武の新政
1336年 足利尊氏が建武式目制定、室町幕府成立
~後醍醐天皇は吉野へ移り、南北朝時代幕開け
1368年 将軍足利義満
1392年 南北朝合体
戦闘:
胴丸主体に腹巻も多用、槍も出現して徒士部隊が主力となる。
体佩:
切るよりもなぎ払うことが主目的になる(体佩の一大変化)。
中間反りで身幅広く重ね薄い、大鋒で三尺近い大太刀が出現。
→いわゆる吉野朝(延文貞治)体佩であるが、最末期は減少。
刃文:
互の目乱、湾れ乱が主、皆焼刃が初めて焼かれる。
短刀:
身幅広く重ね薄い、中間反りの一尺から一尺二寸程の小脇差。
室町時代
初期 応永元年~文正元年(1394~1466)
時代背景
1404年 明との勘合貿易開始
1429年 将軍足利義教
1441年 嘉吉の乱
1449年 将軍足利義政
年号:
応永年間 1394~1428
正長年間 1428~1429
永享年間 1429~1441
嘉吉年間 1441~1444
文安年間 1444~1449
宝徳年間 1449~1452
享徳年間 1452~1455
康正年間 1455~1457
長禄年間 1457~1460
寛正年間 1459~1466
文正年間 1466~1467
戦闘:
ほとんどない平和な時代に武器は発達する。
体佩:
太刀から打刀への過渡期である。
徒歩に便利な打刀が、指副えから主体になる。
初めは先身幅細く先反りの尋常な姿の太刀も多く製作されるが、終わりには製作されるのはほとんど打刀のみとなる。
短刀:
一尺から一尺三寸、身幅やや狭く先反りの鎬造りの脇差登場。
刀装:
透鐔の出現(打刀と共に発生)、義教の物数寄からともいう。
中期 応仁元年~天文23年(1467~1554)
時代背景
1467年 応仁の乱(~1477)、戦国時代の幕開け
1482年 義政が銀閣建立
1487年 加賀の一向一揆
1497年 蓮如が石山本願寺を創建
1519年 北条早雲没
1543年 種子島へ鉄砲伝来
1549年 ザビエルにより、キリスト教伝来
年号:
応仁年間 1467~1469
文明年間 1469~1487
長享年間 1487~1489
延徳年間 1489~1492
明応年間 1492~1501
文亀年間 1501~1504
永正年間 1504~1521
大永年間 1521~1528
享禄年間 1528~1532
天文年間 1532~1555
戦闘:
完全に徒士戦が主力となり、槍が下級兵士の主戦武器になる。
防御より攻撃性に重点を置く腹巻が主流に(胴丸は一部)。
これ以降、戦乱が多く刀槍の需要が増え、数打ちが製作される
体佩:
屋内の戦闘に便利な片手打ちの刀が流行する。
→二尺二寸前後、元と先の身幅の差は少なく先反りである。
短刀:
屋内で刀を離した際の護身用として、元重ね薄く先重ね厚い刺突に便利 な懐剣が製作された。
刀装:
後藤家は上三代の時代
末期 弘治元年~文禄4年(1555~1595)
時代背景
1555年 厳島の戦い
1560年 桶狭間の戦い
1570年 姉川の合戦
1573年 足利義昭が信長に降り、室町幕府は滅亡
1575年 長篠の合戦
1582年 本能寺の変
1585年 豊臣秀吉が関白に
1588年 刀狩り
1590年 秀吉の天下統一
1592年 文禄の役
年号:
弘治年間 1555~1558
永禄年間 1558~1570
元亀年間 1570~1573
天正年間 1573~1592
文禄年間 1592~1596
戦闘:
足軽が軍事力の中心となる近代戦へと移行、また鉄砲隊も登場する。
隙間の多い腹巻から、一枚の鉄板でできた当世具足へと移行する。
体佩:
片手打ちの刀は廃れ、寸法の延びた重ね厚い丈夫な刀へ。
刀装:
後藤家は中七代
江戸時代
慶元(慶長)新刀期 慶長元年~寛永20年(1596~1643)
時代背景
1597年 慶長の役
1600年 関ヶ原の合戦
1603年 徳川家康、征夷大将軍に(徳川幕府成立)
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣、豊臣家滅亡
1635年 参勤交代制確立
1637年 島原の乱
年号:
慶長年間 1596~1615
元和年間 1615~1624
寛永年間 1624~1644
戦闘:
戦国時代から関ヶ原、大阪冬の陣・夏の陣を経て反省期に。
体佩:
吉野朝期の大太刀を徒歩戦に都合良い寸法に磨り上げる(慶長磨上)。
これにならい、幅広で元と先の身幅の差がない、大鋒で反りの浅い豪刀が流行した(磨上ものよりも重ねがわずかに厚い)。慶元(慶長)体佩。
刃文:
大互の目乱で沸づいた相州伝風の派手なものが多い。
鐔工:
後藤家は中七代の時代
寛文新刀期 正保元年~延宝8年(1644~1680)
時代背景
1645年 大小刀の寸法その他を制定
1651年 慶安事件(由井正雪の乱)
年号:
正保年間 1644~1648
慶安年間 1648~1652
承応年間 1652~1655
明暦年間 1655~1658
万治年間 1658~1661
寛文年間 1661~1673
延宝年間 1673~1681
社会:
幕藩体制強化をするための武断政治のひずみが出て、浪人が増加する。 仕官のための剣術が流行。
体佩:
竹刀での稽古で突くということの利点を発見したことにより、先身幅が 狭く、小鋒で反りの浅い、刺突に適した長寸の刀姿へ(寛文新刀体佩)。
短刀:
制定により必需品から外れたので製作が激減。
刃文:
簾刃、濤乱刃、珠数刃の出現。
鐔工:
後藤家は中七代。
元禄新刀期 天和元年~享保20年(1681~1735)
時代背景
1688年 元禄元年、柳沢吉保側用人に
1702年 赤穂浪士の討ち入り
1716年 将軍徳川吉宗の享保の改革
年号:
天和年間 1681~1684
貞享年間 1684~1688
元禄年間 1688~1704
宝永年間 1704~1711
正徳年間 1711~1716
享保年間 1716~1736
社会:
商人が金の使途を遊興に求め、華美の風が一般的になる時代。
それまでの文治政策を吉宗が武断政治に改める。
体佩:
元禄の華美をそのままにあらわす優雅な刀姿。
先と元の身幅の均衡良く、反りも深くなり全体的に優しくなる。
尾張藩では紀州藩への反発から、剛健な刀も作られる。
刃文:
人工的な技巧を凝らした住吉や富士見西行が出現。
鐔工:
後藤家は下七代
寛延新刀(刀工受難)期 元文元年~宝暦13年(1736~1763)
時代背景
1739年 尾張藩主徳川宗春、奢侈のため蟄居に
1745年 吉宗辞職
年号:
元文年間 1736~1741
寛保年間 1741~1744
延享年間 1744~1748
寛延年間 1748~1751
宝暦年間 1751~1764
社会:
裕福な商人に比べて武士は困窮、刀剣を新たに購入する余裕がない。
武芸よりも財政的手腕に長けた者が重用される。
→刀の注文は途絶、お抱え刀工以外の多くが野鍛冶となる。
体佩:
変化はないが作刀は非常に少ない
新々刀前期 明和元年~享和3年(1764~1803)
時代背景
1772年 田沼意次、老中に(田沼時代)
1783年 天明の大飢饉
1787年 松平定信、老中に(寛政の改革)
1792年 ロシア使節ラクスマン来航
年号:
明和年間 1764~1772
安永年間 1772~1781
天明年間 1781~1789
寛政年間 1789~1801
享和年間 1801~1804
社会:
諸外国の使節来航、尊皇論も強まる。
刀の注文も増え、各地に優秀な刀工が輩出、門弟を育成した。
これより再び刀は隆盛に向かう。
体佩:
無地風の、新々刀地鉄と呼ばれるべっとりした鉄が特徴。
優しさが次第に消え、身幅増し、鋒も伸びて強さが出てくる。
刃文:
人気の相州物上位や大阪新刀の助広、真改を狙ったものが多い。
華麗ではあるが、無地風のきれいなものが一般的である。
新々刀後期 文化元年~慶応3年(1804~1867)
時代背景
1825年 異国船打ち払い令
1833年 諸国に飢饉激化、打ち毀し広がる
1837年 大塩平八郎の乱
1841年 天保の改革始まる
1842年 武器・武具の値下げ令(天保の改革の一環)
1853年 ペリー、浦賀に来航
1858年 井伊直弼大老に、日米修好通商条約締結
1860年 桜田門外の変
1862年 生麦事件
1863年 薩英戦争
1864年 池田屋事件、禁門の変
1867年 大政奉還(徳川幕府滅亡)、寺田屋事件
年号:
文化年間 1804~1818
文政年間 1818~1830
天保年間 1830~1844
弘化年間 1844~1848
嘉永年間 1848~1854
安政年間 1854~1860
万延年間 1860~1861
文久年間 1861~1864
元治年間 1864~1865
慶応年間 1865~1868
社会:
初期は比較的平和であったが、天保に入ると飢饉が相次ぎ、外国からは 黒船の圧力があり、動乱の時代へ突入する。
体佩:
天保の改革で幕府が武芸を奨励する。
水心子正秀が「刀剣武用論」で復古主義を唱える。
天保以降、吉野朝期の磨上物にならった慶元体佩の刀が流行(復古刀)。
最末期は、無反りに近い大段平造りの刀に講武所拵えが流行(勤皇刀)。
現代 明治元年~現在(1868~)
時代背景
1868年 明治天皇即位
1869年 五稜郭の戦い終了、戊辰戦争終結
1870年 庶民の帯刀を禁じる
1871年 散髪廃刀を許す
1876年 廃刀令
1877年 西南戦争
1894年 日清戦争勃発
1904年 日露戦争勃発
1914年 第一次世界大戦に参加
1931年 満州事変勃発
1937年 盧溝橋事件、日中戦争開始
1941年 真珠湾攻撃、太平洋戦争開始
社会:
洋式調練が盛んになり、刀剣類は無用の長物視されていく。
廃刀令が刀工の生計に止めを刺し、多くの刀工が転廃業する。
体佩:
サーベル式の外装に応じた身幅の狭い、応永頃の太刀姿を小振りにした
ような姿が流行。
昭和以降、軍刀の需要は増大、鍛錬しない昭和刀が登場。