狩野常信
かのうつねのぶ 1636~1713
【作者略歴】
江戸時代前期の幕府御用絵師。父は狩野尚信。
幼名は三位、右近と称し、養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男の周信、浜町狩野を興した次男岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。
父尚信没後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継ぐ。同年剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。父亡きあとは探幽に画を学んだとされる。
中院通茂に和歌を学び、また近衛家の画事も勤めた。探幽同様に古画の学習に努め、のちに「常信縮図」(東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。内裏造営では賢聖障子を描き、法印に叙された。多くの古画粉本を蓄え、200石という他の奥絵師家を超える知行地を得るなど、狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される。
画風は探幽に近く、その意図を理解し再現できる画力をもった数少ない絵師である。常信には探幽のような幽遠さは無いが、構図の位置関係の整理・合理化、装飾性の増加と細密化が指摘でき、より明快で華やかな画面となっている。
晩年は穏やかで繊細な画風に変わり、以降の狩野派が弱体化し、絵の魅力が失われる原因となった。
四季山水図屏風(右隻) 東京富士美術館蔵